眼鏡っ娘原理主義五つの誓い
序文
昨今の眼鏡っ娘を軽んずる風潮は目に余る物がある。
数多存在する記号的な萌え要素の一つとして
他と同列に扱われるばかりでなく、
最近では特に目が悪い訳でもないキャラに
眼鏡をかけさせた絵を描いて喜ぶ輩まで跋扈する始末。
「眼鏡をかけていれば何でも良い」等という者は
眼鏡っ娘好きとしては下の下。
敢えて言おう、カスであると。
この事態を憂慮する我々"眼鏡っ娘原理主義者"は、今ここに
「真の眼鏡っ娘とは何か、真に眼鏡っ娘を愛する事とは何か」
を定義し、それを唯一無二の絶対正義として
理解と普及に努めるものである。
一、コンタクトレンズは許さない
我々にとってコンタクトレンズこそ最も憎悪すべき存在である。
「イメージが変わりますよ」
「綺麗になりますよ」
などという甘言に惑わされ、
貴重な眼鏡っ娘の純潔がどれだけ奪われてきた事か。
目を覚ましてください!!
眼鏡をかけた貴女は、そんなにも美しいのに。
眼鏡をかけた貴女を、我々はこんなにも愛すのに。
そもそもコンタクトレンズなどという物は、
敏感な粘膜に直接異物を接着させるという
おぞましい行為を強要する悪魔の凶器である。
自然の摂理に従い精神衛生上快適に生きる為にも、
全てのコンタクトレンズ製造工場は
爆破されて然るべきだと言えよう。
拠って、眼鏡っ娘原理主義者はコンタクトレンズは許さない。
二、伊達眼鏡は許さない
例えば貴方が巨乳好きだったとして、
今の今まで興奮していたおっぱいが
補正下着や詰め物によって作り出された
偽乳だったと知ったら一体どんな感情を抱くだろうか。
落胆するはずだ。
騙されたと思うはずだ。
怒りを覚えるはずだ。
つまり、そういう事なのである。
度の入っていない眼鏡など、見せかけだけの偽物、
紛い物に過ぎないのだ。
そもそも眼鏡とは弱った視力を矯正し、
世の物事を正視する為に装着する器具である。
それをわざわざ健康な裸眼の前に
余計な遮蔽物を被せて視界を曇らせるなど、
全く以て意味不明であり、理解不能であり、
許されざる行為なのである。
拠って、眼鏡っ娘原理主義者は伊達眼鏡は許さない。
三、オシャレ眼鏡は許さない
眼鏡とは「知性」と「理性」の象徴であると心得よ。
華美な装飾など不要。
服装の乱れは心の乱れと言うではないか。
必要以上に外見を飾り立てる事が堕落の第一歩となるのだ。
縁の色もフレームの形状もベーシックな物が好ましい。
天地の幅が狭い物等はオシャレ度が俄然高まるので不可とする。
バタフライなぞモロボシダンにかけさせておけば良いのだ。
簡素にして実用本位であれ。
そう、真の美しさとは、即ち「機能美」の事なのである。
拠って、眼鏡っ娘原理主義者はオシャレ眼鏡は許さない。
四、「眼鏡を外すと美人」は許さない
許さないというか、正確に言えば「ありえない」。
眼鏡をかけた状態が100パーセントなのである。
その状態こそが、完全体なのである。
「眼鏡を外しても美人」ならまだしも、
あでやかに目元を彩る眼鏡を外した方が美しいなど、
ぶっちゃけありえないのである。
そもそも人間とは外部から入ってくる情報のほとんどを
視覚に頼っている生物である。
それなのに眼鏡を外すというのは
言わばその視覚を失ってしまったも同然の状態。
突然、暗闇の中に放り出されてしまったも同然の状態。
この状態で一体どうやって魅力的な表情を生み出せるというのか。
眼鏡とはそれを装着する人に自信と誇りを与えるのである。
拠って、眼鏡っ娘原理主義者は「眼鏡を外すと美人」は許さない。
五、「Hをする時眼鏡を外す」は許さない
だってそうではないか。
最も深く愛を確かめ合う行為の最中に、
その最愛なる者の顔をはっきりと見る事が出来なくて
どうするというのだ。
それに、人は「壊してしまわないように」と
そっと眼鏡を扱うものである。
さすれば眼鏡をかけた眼鏡っ娘にもまた
そっと優しく触れる事であろう。
不自由で仕方が無い?
そのもどかしさが良いのではないか。
さしずめ眼鏡自体が首輪や手錠や荒縄に変わる拘束具となり、
新たな官能を生み出すのである。
レンズに落ちる汗さえ美しい。
くちづけを交わす時に頬に当たるフレームさえ愛おしい。
そういうものではないか。
拠って、眼鏡っ娘原理主義者は「Hをする時眼鏡を外す」は許さない。
以上、この定義に一寸でも背きし者は眼鏡っ娘に非ず。
この定義に一寸でも背きし者は眼鏡っ娘を愛する者に非ず。
我々はこれを外道として徹底的に排除・唾棄するものである。
狭量な男と笑うだろうか。
愚かな男と笑うだろうか。
否。
断じて否。
「寛容」と「妥協」は同意と知れ。
迷うな。
惑うな。
恐れるな。
我等この五つの誓いを胸に、真の理想を求めて
眼鏡っ娘原理主義という茨道を邁進するもの也。
平成十六年五月十八日
石沢満月朗、記す
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